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宗教行持の解説

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釈尊降誕会[しゃくそんごうたんえ](4月8日)

仏教の開祖釈尊(お釈迦さま)の誕生を祝う日です。「仏生会」「仏誕会」「潅仏会」とも呼ばれるこの法会は、一般に「花まつり」として親しまれています。

釈尊は紀元前5・6世紀(約2500年昔)の4月8日に、釈迦族の王子(悉多太子)として生まれました。『太子瑞応本起経』や『仏所行讃』等の仏伝によりますと、兜率天という天上界から、白象となって母マーヤ夫人の胎内に入り、受胎したといわれています。また臨月のマーヤ夫人は、出産のため実家に帰る途中、清らかな池や美しい花が咲き乱れているルンビニー園に立ち寄り、無憂樹の花をとろうとしたとき、太子が右脇から安らかに誕生したと伝えられていることから、「降誕会」ともいわれる所以です。

誕生した太子は堂々と7歩進み、右手で天上を、左手で大地を指さして「天上天下唯我独尊」(天上にも天下にもただ我のみ独り尊し)と叫んだともいわれています。この言葉は釈尊だけが尊いという意味ではなく、すべての人間存在が尊いという仏教の基本的立場を宣言したものです。

また、太子の誕生を祝福するかのように、天から冷暖の雨が太子の頭を濡らしたと伝えられることから、「潅仏会」ともいわれていますが、寺院で花御堂を設け、誕生仏に甘茶で潅仏する「花まつり」は、これに由来するものです。

『日本書紀』や『続日本後紀』によりますと、わが国では推古天皇14年(606)に飛鳥の元興寺で行われたのが最初で、平安時代の承和7年(840)には宮中の清涼殿で催され、以後一般寺院にも普及し、さかんに行われるようになりました。

精霊祭[しょうれいさい](7月初旬)

過去一年間に亡くなられた、学園関係者の魂を迎え、供養する日です。「盂蘭盆会」「盆まつり」「お盆」「魂まつり」とも呼ばれています。

盂蘭盆は『仏説盂蘭盆経』によりますと、釈尊の十大弟子の一人で、神通第一とうたわれた目連尊者が、その神通力によって、母親が餓鬼道におちて苦しんでいるのを知り、釈尊に母親を救済する方法を尋ねました。釈尊は自恣(夏安居―4月16日から3ヶ月間一ヶ所で集団生活し、修行に専念すること―が終った日の反省批判会)の日である7月15日に、百味の飲食と五果(五種類の果実)などを供え、十方の衆僧を供養せよとさとされました。目連は教えにしたがって、衆僧を供養する盂蘭盆会を行い、母親を餓鬼道から救うことができたとある故事に基づいています。また、これは衆僧を供養する功徳によって、亡くなった人の魂を救済することを意味しています。

中国では6世紀から行われ、初唐ころにはさかんに営まれたようです。わが国では『日本書紀』によりますと、推古天皇14年(606)7月15日に斎を設けたのが最初ですが、斉明天皇3年(657)元興寺の西に須弥山の像を作り、盂蘭盆会を営んでから、本格的に行われるようになりました。ただ地方によっては農耕の都合で、8月15日に営むところもあります。また、盂蘭盆の法会とあわせて、盆踊りも年中行事の一つとしてさかんに行われています。

御征忌[ごしょうき](10月12日~15日)・太祖降誕会[たいそごうたんえ](11月21日)

御征忌は總持寺御開山太祖常済大師(瑩山紹瑾)のご命日の法要、また、太祖降誕会は同じく誕生を祝う法要です。瑩山禅師(1264~1325)の伝記は自ら著わされた『洞谷記』をはじめ、十余部が知られています。これらによりますと、禅師は文永元年(1264)10月8日(太陽暦では11月21日)越前多禰邑(現福井県)に生まれました。8歳で永平寺に登り、13歳で孤雲懐弉(1198~1280)について得度し、懐弉没後は徹通義介(1219~1309)について坐禅修行に努めています。18歳から22歳まで諸国を行脚し、宝慶寺寂円(?~1299)などに学びました。一説には、臨済宗の円爾(1202~1280)の弟子等に学び、比叡山で天台教学の研鑽を積んだとも伝えられます。

その後城満寺(徳島県)の開山として招かれましたが、永仁3年(1295)32歳のとき、大乗寺(金沢市)の義介にふたたび随侍することになりました。義介は禅師に対し「平常心是道」についてその見解を尋ねますと、「平常心の道は知と不知とにかかわらない」「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と簡明に答えました。義介はただちに印可証明(修行が大成したことを認可証明すること)を与えましたので、禅師はその法を嗣ぎました。

35歳のとき義介のあとをうけ、大乗寺二世となりましたが、このころ峨山韶碩(1276~1366)や明峰素哲(1277~1350)などの門弟もでき、大乗寺を中心とする禅院の修行規則を定めるなど、宗門発展の基礎が整いました。

正和2年(1313)50歳のとき、永光寺(石川県羽咋市)に移り、民衆教化に努めました。その後、元亨元年(1321)58歳になって定賢律師の招請をうけ、諸嶽寺(もろおかでら)におもむき、これを禅寺に改め、諸嶽山總持寺を開創されました。

晩年には永光寺に帰り、正中2年(1325)8月15日(太陽暦では9月29日)に62歳で入滅していますが、著書は多く、曹洞宗の法脈が正しく伝承されていることを明らかにした『伝光録』をはじめ『總持寺中興縁起』『坐禅用心記』『瑩山禅師清規』などがあります。また門弟も60余名を数えることができ、その法流は日本全土におよんでいます。

總持寺では毎年10月12日から15日まで御征忌を営み、曹洞宗教団発展の基礎を確立した禅師の遺徳を顕彰し、しのんでいます。

また、本学では御征忌の法要への参列を行うとともに、太祖降誕会の11月21日を開学記念日と定め、さらに、あらかじめ誕生を祝う法要を行っています。

涅槃会[ねはんえ](2月15日)

釈尊が入滅された日です。「降誕会」「成道会」とともに「三仏忌」あるいは「三大会」といわれ、特に重んじられています。

釈尊は35歳で成道し、45年間にわたって、人間の苦悩を解決するための正しいあり方を説き続けました。80歳の釈尊は老先が短いのを自覚し、故郷へ向かいましたが、クシナガラで弟子たちから最後の質問をうけたあと、東西南北にある四双八隻(二本ずつ八本)のサーラの樹(沙羅双樹)の間に横たわり、涅槃(死)を迎えます。

涅槃は「煩悩が吹き消された状態」という意味ですが、釈尊入滅の模様については、有明の月が輝き、しだいに白みかけてきたころ、仏の身体と衣は次第に金色に染まり、海の潮がひきはじめた暁、静かに最後の息をひきとられたと伝えられています。また『大パリニッバーナ経』によりますと、沙羅双樹は時ならぬ花を咲かせ、天の曼荼羅華とともに、供養のために釈尊の身体いっぱいに花びらを降り注いだといわれています。『平家物語』の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現わす」はこの伝説に基づいています。

インドや中国では早くから行われていたことが、唐・玄奘(602~664)の『大唐西域記』や道宣(596~667)の『広弘明集』に記されており、『百丈清規』には当日『遺教経』(釈尊最後の説法)を読むべきであるとしています。

わが国では奈良時代に興福寺で「常楽会」という名称で営まれたのが最初とされていますが、その後源信(942~1017)や明恵(1173~1232)の『涅槃講式』などに基づいて修されるようになり、室町時代から江戸時代にかけて広く行われ、年中行事の一つとなりました。

新入生本山参禅会(大学行事)

本学は曹洞宗大本山總持寺によって設立された大学です。

建学の精神については巻頭に詳しく示されていますが、仏教、特に禅の精神に基づく円満なる人格の形成と社会への奉仕を教育の理念としています。

新入生参禅会は実際に身をもって坐禅を体験するとともに、禅寺の日常生活=修行生活の一端に接することにより、禅の精神さらには建学の精神を理解するために行うものです。